筆耕・文責:石井綾月

住職の與芝眞彰です。
第2回法話として、今回は「回忌法要」と題して、お話をいたします。

通夜葬儀、ご納骨の後、数年おきに巡ってくる回忌法要ですが、なぜ三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌と「三」と「七」のつく年にご法要をするのか、不思議に思われる方もいらっしゃるかと思います。

古代インドの宗教では回忌法要というものはありませんでした。また、キリスト教では葬儀が終わった後は、三々五々にお墓参りはするものの、皆で集まり回忌法要をする、という習慣はありません。しかし、日本のキリスト教では、回忌法要のようなものを執り行ってほしい、というご要望もあるそうです。

なぜ日本では、何度もご法要をする習慣があるのか。これには長い歴史的な背景があり、日本文化ならではの特徴があると私は考えます。

誰かが亡くなった時、一番つらい思いをしているご遺族を、親族や地域の人で支える。縁のあった方々と、ともに悼み亡くなった方を見送る。これがお通夜やご葬儀の持つ役割であり、古今東西共通のものです。

古いインドの教えでは、人は亡くなると四十九日まで七日ごとに裁判にかけられ、前世や生きていた間に成した罪の重さによって、次に何に生まれ変わるか閻魔大王(えんまだいおう)に決められる、と説かれており、これを「輪廻転生」(りんねてんしょう)と言います。
亡くなった方が少しでも、次に幸せな場所に生まれ変われるように、残された人が供養をし、祈ったのが、初七日法要をはじめとする四十九日までの法要の起源です。
中国に仏教が伝来した過程で、ここに百箇日、一周忌、三回忌(※1)が加わりました。四十九日のときに決まった裁判の結果を、より良いものに変えてもらうために供養を重ねたのです。

(当山の旨とする浄土宗では、亡くなった方は裁判にかけられることなく、極楽浄土の阿弥陀仏様にお迎えに来ていただける、という教義がありますので、浄土宗の法要では、故人が極楽浄土で心安らかに過ごせるようにとお祈りしています。)

日本に仏教が広まったあと、さらに十二支の考え方が取り入れられて十三回忌、二十五回忌を行う習慣が生まれ、そして仏教で尊重されている「三」と「七」という数字(※2)にちなみ、三と七のつく年に祥月命日(亡くなった日と同じ日付)よりも大きな法要を営む習慣が生まれました。
親戚一同や縁者で何年かごとに集まり、故人を偲ぶことで、一人では耐えることができない大きな悲しみであっても、周囲の人と支えあえば何とか乗り越えていくことができる。東日本大震災の時もそうでしたが、こういった考えに基づいた支え合いは、日本の貴重な文化の一つだと思います。

では、十年、二十年と年が経って、悲しみが薄らいできたころのご法要にはどんな意味があるのでしょうか。
心のゆとりが出てきたころのご法要です。故人が亡くなられた時にまだ幼かった子ども達は成人し、若者は壮年に、そしてご自身は、ずいぶん自分も年をとったな、と思われているかもしれません。集まってくれた人たちに感謝するとともに、改めて故人とゆっくりと向き合い、これまでの事をご報告する機会でもあります。

私事になってしまいますが、私にはあまり祖母の記憶がなく、「気の強い人だったみたいだな」とぼんやり思うほどでした。ですが最近、あるご縁から、祖母が非常な勉強家で、医師を志し、社会活動にも熱心であったことを知りました。偶然に驚きましたが、自分自身や、僧侶と医師である娘たちとの繋がりやご縁を、感慨深く思ったものです。
また、私の父の先住職は大変教育に厳しい人でありましたが、最近お檀家さんになられた方から、大変親しみやすい人柄であったというお話を聞き、自分の知らぬ父を再発見することができました。
たとえ身内であっても、自分の目線だけでは、計り知れない部分はあるものですが、年齢立場問わず様々な方から思い出話を聞くことで、心の中の人物像が豊かになっていくというのは、有難いことだとしみじみ感じました。

確かに、回忌法要に親戚一同で集まろうとすれば、段取りをつけるだけでも大変なものです。お付き合いに気が進まない相手もいるでしょうし、若い方からすれば、年配の方の言葉をわずらわしく感じることもあるかもしれません。
ですが、故人を軸とした様々なご縁を感じ、普段お話をしない方と交流することで、自分一人では持てなかった視点を広げるチャンスでもあるのではないでしょうか。

皆様が、仏様の温かい光のもと、皆様と心を通わせる、そんな場の仲立ちとなれれば、僧侶として幸いに思います。

※1 なぜ「一周忌」は「周」がついて一年目に行うのに、「三回忌」は「回」がついて二年目に行うのでしょうか?:「一周忌」は故人が亡くなられてから暦が「一周」した日に行うため、「一年目」になります。「回忌」は亡くなった日を「一回忌」と考えるため、一年目の「一周忌」は「二回忌」に当たり、二年目に「三回忌」がやってきます。数え年と同じようにお考え頂ければ間違いがないかと思います。

※2 なぜ仏教で「三」と「七」がありがたい数字と考えられているのでしょうか?:「三」という数字は「二」を一歩超えた数字です。「善悪」「正邪」「勝負」「優劣」「損得」といった、俗世でついとらわれがちな二元論から一歩抜け出る、という意味があります。「七」については諸説ありますが、お釈迦様がお生まれになったときに「七歩」歩かれた意味が「六道」(人間が輪廻転生で生まれ変わり続ける辛い迷いの世界)から一歩先んじた悟りの世界である、という考え方や、「十二支」の半分の六年に一年を足して七としたという考え方があります。