筆耕・文責:石井綾月

住職の與芝眞彰です。
年明けの第4回は、「惻隠」と題しましてお話を致します。

少しショッキングなお話かもしれませんが、とある病院での逸話です。

その病院では長年、病没者のご遺体を裏口からお送りしていました。
しかし、浄土真宗の熱心な信徒でもあった院長が、ある日、「人生をまっとうされた方に裏口からお引取り頂くのは非礼なことである」として、お棺に入ったご遺体を病院正面出口からお送りすると決定しました。
周囲は当初、出発の際に院内は大混乱に陥り、たくさんのクレームや訴えが来るものと覚悟していました。
ところが、いざその時を迎えると、院内の患者さんたちは、頭を下げ、合掌して棺をお見送りしたそうです。
同じ病院長をつとめる者として、強く印象に残ったお話でしたので、何度か法話でお話したことがあります。壇信徒の方の中にはすでにご存知の方もいらっしゃるかもしれません。

この院長は、亡くなった方がまるで荷物のように裏口から搬出されることにずっと疑問を抱いておられたのでしょう。もし自分が命を終えたとき、同じように扱われたらどんな気持ちがするだろう、ご遺族はどんなお気持ちだろうと慮られたのかもしれません。

このように、「人の身になって物事を感じ取り、人を悼み哀れむこと」を「惻隠」といいます。もともとは、儒教学者の孟子の言葉、「惻隠の心は仁の端なり」という一節から採られたもので、「人をあわれみ、他者のために心を痛める心が、徳の高い人間への道のはじまりである」という意味です。
孟子というのは性善説を説いた学者で、「人の心にはもともと良い部分があるのだから、それを伸ばしていくことで立派な人物を目指しましょう」と説きました。

また、仏教の開祖であるお釈迦様は、どんな人が相手でも、相手の立場に立ったお説法ができたといわれており、これは「対機説法」と呼ばれています。お釈迦様は、悟りを開かれるまで、数え切れないほど多くの生き物に生まれ変わり死に変わり、魂を磨いて来られました。そのため、どんな職業や立場、人格の人が相手であっても、相手の身になって考えることができたのです。

とは言え、相手の身を思いやる心、惻隠の情をいつも抱き続けるというのは結構疲れることでもありますし、私たちは一人ひとり別の人間ですから、良かれと思った気持ちがすれ違うこともあるでしょう。

「譬喩経(ひゆきょう)」という、仏様の弟子の過去の人生について説いたお経に、こんな物語があります。
あるとき、目の不自由な人が知人の家を訪れたのですが、帰るときにはもう夜でした。
いとまごいをしようとすると、家人が「暗いですからこれをお持ちください」と灯りを手渡そうとしました。目の不自由な方は、少々腹を立てて言いました。「お忘れですか、私は目が見えないのです。これは私には必要ありません」すると、家人はこう答えました。「いえ、それはあなたの足元を照らすためではありません。灯りがあれば、すれ違う人がうっかりあなたにぶつかって、お互い怪我をすることもないでしょう」

人は時に、自分自身が何を必要としているかすら、分かっていないこともある、というお話です。

冒頭に述べた病院長の決断が、全ての病院でしきたりになるのは難しいのもまた、惻隠の心の現われとも言えます。病気と闘い、死の恐怖に脅かされている患者さんや家族にとって、「死」そのものを目にすることは大きな心の負担だからです。私が冒頭の話を聞いたときも、病院長の立場として「縁起でもない」とつい考えてしまいました。
しかし、あまりに「死」というものから目を背け続けてしまうと、いざ身近に死が訪れたとき、大きすぎるショックから受け入れることができない、ということもありえます。正面玄関から送られるご遺体を目にした他の患者さんたちがどのように感じられたのかは想像することしかできませんが、「死」がただ恐ろしい人生の終わりではなく、自分の死後も誰かが自分をこうして大切に思ってもらえるのだ、という気持ちが低頭合掌というしぐさに現れたのかもしれません。この病院と、従来の病院、どちらが間違っているわけではないのです。

「惻隠」とは一筋縄でいかない厄介な部分を持っています。しかし、難しいから最初からあきらめてしまい、自分と自分の身内だけが幸せでいればいいと世の中みんなが思うようになったらどうなるでしょう。若く、金や力があるうちはいいでしょうが、人間誰しも、老いて弱くなっていくものです。若さや力にしがみつく大人たちを見て、次の世代の子供たちはどう思うでしょうか。
たとえ現代がいやな世の中であっても、まず自分からだけでも振る舞いを変えていくことで、だんだんそれが周囲に伝わり、世間に伝わるということもあるのではないかと思います。

まずは身近な人、半径5メートル程度の人間関係に、昨日より少しだけ惻隠の情を意識していただければと思います。例えば、家族、職場の人、お店の店員さんなどに、笑顔で挨拶するところからでも構いません。積極的に何かを始めなくても、「相手にひどい言葉を投げかけてやりたくなったときに、ぐっとこらえる」ことも立派な惻隠の現われです。
思いやりのある人のところには、自然と同じような人が集まってきます。お互いに思いやりあえる暖かい場が生まれるでしょう。思いやりのない人からは人が離れていきますから、当人は自由気ままにふるまっているつもりでも、結果として孤独になってしまうかもしれません。たとえ大富豪でも、周りは自分から金を引き出そうとする輩ばかり、親族みんなが自分が死ぬのを待っている、という生き地獄に耐えなければいけない人生もあるのです。

では、「身近な人が自分勝手でイヤなやつで、毎日腹が立って仕方がない」という場合はどう考えたらいいでしょうか。
自分は正しくて相手が悪いと思い込んでしまうと、自分ばかりが苦労をしていて、周りが嫌なやつばかりに思えて疲れてしまいます。たとえ嫌な部分が目に付く人でも、その人にはその人なりの事情や限界があり、可哀相な部分もあるのかもしれません。もちろん、明らかに自分にひどい仕打ちをする人から自分を守ることは必要ですが、余裕ができたときに相手を見直せば、憎しみもやわらぎ、結果として心がラクになるかもしれません。

現代になって以来、家で家族に看取られる方よりも、病院で亡くなる方のほうが増加していたのですが、最近は医療費の問題により、自宅で亡くなる方も増えてきています。看護、介護には大変エネルギーを使いますし、心の余裕がなくなることもあるでしょう。「死」を見慣れてこなかった世代の方たちには、「死」を受け止めることが難しいこともあるでしょう。そういう時に、この「惻隠」という言葉を思い出して頂ければと思います。

うまくいく日も、行かない日もあるでしょうが、私たちは神仏でないのですから仕方がありません。お釈迦様のような温かい心を目標に、無理せず少しずつ、仏の道を取り入れて行っていただければ幸いです。