筆耕・文責:石井綾月

第3回 松光寺と松平家との縁起

住職の與芝眞彰です。

今回は、少し仏教の教えから離れ、松光寺の名前を頂く由来となった、「松光院殿」が生涯を過ごされた松平家の歴史、そして当山とのご縁についてお話を致します。

時代柄、女性であった松光寺殿のご本名、生没年などははっきりしませんが、「松光院殿」とういお戒名には、「松平に光あれと、いつまでも見守ってくださるように」という当時の住職の祈念がこめられていると存じます。戒名というのは、故人の生前のお人柄や積まれた徳を鑑み、没後の冥福を祈って僧侶がお授けするものだからです。
「光」というのは仏教、特に浄土宗ではとても大切な文字です。ご本尊の「阿弥陀仏(あみだぶつ)」様の梵名(サンスクリット語での名前)は「アミターバ」もしくは「アミターユス」ですが、「アミターバ」は「無限の光をもつもの」、「アミターユス」は「無限の寿命をもつもの」という意味をもっています。そのため「阿弥陀仏」は「無量光仏」「無量寿仏」とも言います。この「光」とは、「心の光」です。私たちが暮らす俗世では、永遠に続くものは何一つありません。どんなに長持ちする電球もいつかは切れますし、個人の持つ光り輝く魅力もいつかは衰え、太陽にすら寿命があります。また、光あるところには必ず陰ができるものです。ですが、阿弥陀様の光は、いつまでも絶えることなく、どんな場所も余すことなく、温かく包み込んでくださる光です。私たちが目を向ける気持ちになれば必ずそこにある阿弥陀様のお心が「光」であり、浄土宗では阿弥陀様のそのありようを有り難いものとして押戴いています。

では、「松光院殿」が嫁がれた「松平家」と当山はどのようなゆかりがあったのでしょうか。
当山はもともと「頂本寺」と云い、芝西久保巴(しばにしくぼともえ)町(現在の虎ノ門3丁目あたり)にありましたが、振袖火事として有名な明暦の大火より少し前の1650年、慶安3年の大火で類焼しました。1年後、度重なる火災の類焼を防ぐため、複数の寺院を集めて再配置し、可燃物の少ない墓地を防災地とするという都市計画に基づき、現在の高輪に移転してきました。その後、松平家、細川家の江戸菩提寺としてご縁を頂くことになります。

江戸菩提寺というのは、三大将軍家光が命じた「参勤交代」に端を発するものです。大名の反乱を防ぎ、財力を削るという幕府の思惑で、大名は一年ごとに領地と江戸に住まいを変えねばならず、家督を継ぐまでの嫡男と正室は江戸に人質として留め置かれました。寿命の短い当時、江戸で亡くなる正室や嫡男、縁故の方も多くいらしたため、その方々の菩提を弔うために設けられたのが江戸菩提寺です。

さて、松平と言えば、浄土宗と深い仏縁を持つ徳川家康公の元の姓ですが、当山が菩提寺を勤める松平家は、古くは「藤井松平家」といい、家康公の曾祖父の信忠の末弟、松平利長から分かれた家です。家康公の三河時代からの親族は十八松平とも呼ばれており、二代目の信一は家康の幼少期よりそばに仕え、天下統一を支えました。
統一後は、譜代大名として活躍し、五代目の信之は老中に昇り詰めるまでになります。

信之公は先代の忠国公とともに名君として知られ、学問好きで農政にも熱心な人柄でした。老中になる以前に治めていた播磨明石では多くの新田開発に取り組み、飢えを救ったため領民に慕われ、現在も神戸市垂水区に供養墓が残っています。(※1)

この信之公の母君、四代忠国公の奥方が「松光院殿」です。
信之公が亡くなられたのが1686年、その後当山が「頂本寺」から「松光寺」へ寺号を改めたのが1688年ですので、おそらく信之公の逝去をきっかけに松光院殿にあやかり、お名前を頂戴したのだと察せられます。

藤井松平家と学問との関わりで、もう一人有名な人物が、後世「解体新書」を著した杉田玄白です。玄白の曽祖父は藤井松平家の家臣でした。祖父の甫仙(ほせん)はその次男に生まれ、芝の浄土宗天徳寺に寄食していたのですが、四代忠国公に『気象ありげな才あり』と見込まれ、家屋敷で学問を学んだと言われています。五代信之公の後ろ盾もあり、20歳を過ぎるころから幕府お抱えの外科医兼オランダ人通詞(通訳)である西玄甫(にしげんぽ)に外科医術を学び、藤井松平家の藩医となりました。ちなみに、西玄甫の息子が、蘭学の祖といわれる西玄哲です。

ところが、この「学問熱心」であったことが、その後藤井松平家に思わぬ災禍をもたらすこととなります。原因は、幕府の推奨する朱子学と対立した学者、熊沢蕃山の存在です。

熊沢蕃山は、もとは岡山藩に仕えており、理論より実践を尊ぶ「知行合一」を旨とする陽明学をもとに、自由な考え方で治山治水につとめていました。「知行合一」とは平たく言うと、「知識があっても行動がなければ意味がない」という考えで、「おかしいと思ったら現状を変えよう」という革新的な面を持っていました。(※2)
しかし、幕府は「知的判断が行動よりも先んじるべきである」という保守的な朱子学を重んじ、幕府の定めた身分秩序の保持を図っていました。
そのため蕃山は、朱子学派の林羅山らから非難を受け、岡山藩を去り京都に移りますが、そこでも名声が高まったため追放。ついには50歳にして身柄を捕らえられ、明石の藤井松平家預かりとなります。
当時五代信之公は38歳、学問好きであった信之は蕃山を表面上幽閉した形にしたものの、実際は顧問のように遇していたようです。信之が大和郡山、後に古河に転封となっても蕃山はこれに付き従い、新田開発に尽力しました。古河に移ってから1年ほどで、老中在職のまま信之は亡くなりますが、古河藩の新田開発で石高は4万石もの増産となったそうです。

信之の嫡男の六代忠之は信之が43歳の時に生まれましたが、同様に蕃山の教えを受けていたと思われます。信之が亡くなり、家督を継いだ1686年、忠之はわずか13歳でしたが、ここから忠之の奇禍が始まるのです。

(後編 に続く)

※1:

こちらのサイトで、五代信之公の供養墓を見ることができます。
公の名君ぶりが偲ばれます。
「松平日向守信之公の供養墓」
http:///www.hi-net.zaq.ne.jp/odagiri/isibumi/nobuyuki/nobuyuki.html

※2:

こちらのサイトで、朱子学と陽明学の違いについて、より詳説されています。
「朱子学と陽明学の違い、日本朱子学とは!」
http://shutou.jp/blog/post-625/