筆耕・文責:石井綾月

住職の與芝眞彰と申します。

このたび、松光寺のホームページを通じ、医師と僧侶として生きてきた身から、仏教を志す医療者として皆様にお話をさせて頂くことになりました。

私は長らく肝臓病医として、劇症肝炎を専門とし多くの症例に取り組んで来ました。また、沢山の病院のスタッフや、宗門の方々の有形無形のご助力のおかげで、医師と僧侶を兼務し続けることができました。

力及ばず、亡くなられたまだ年若い患者さんとそのご家族に向き合い、自分の無力さにこらえられぬ気持ちになることもありました。自坊の本尊に、死力を尽くしても及ばない凡夫としての自分とは、そして自分は今後どう医療者として生きていくべきか問いかけることもありました。

その長年の営みの中で、私が病院長となって、周囲のスタッフに伝えたいと願い、談話として頻繁に取り上げたこと、「智慧と慈悲」について今回はお話します。

 

弥陀三尊当山の自坊には、ご本尊の阿弥陀仏(あみだぶつ)様の脇侍(わきじ)として、観音菩薩(かんのんぼさつ)様と、勢至菩薩(せいしぼさつ)様が左右におられます。浄土宗を開かれた法然上人は、幼名を勢至丸(せいしまる)とおっしゃり、勢至菩薩とはご仏縁の深い間柄です。

観音菩薩様は、「慈悲」を司り、勢至菩薩様は「智慧」を司ると言われています。

 

「慈悲」とは、わけ隔てなく他者の痛みを自分のもののように感じ分かち合い、癒そうという心を意味します。わが子、身内、恋人など、人間はつい身びいきをしてしまうものですが、身近な人だけでなく、もっと広い視点で他者に良くしようという志です。

「智慧」は、仏教の言葉で、一般的な「知恵」より深く、普遍的な意味を持っています。単なる「知識」(今ではインターネットで簡単に手に入ります)はもちろん、「法学」「倫理」、一般的な「生活の知恵」なども、時代とともに移り変わり、また各家庭や地方によって様々なしきたりがあり、これも普遍的とは言いがたいものです。どんな時代でも、どんな立場の人にも通じるものの道理、ひいては宇宙の真理と言えるものが「智慧」です。

この「慈悲」と「智慧」の両者があってこそ、阿弥陀仏様のような仏様には及ばなくても、医療者は人を救う一助となれるのだと思い、他の医療者にその事を強調しています。

 

「慈悲」だけでは、いくら他者の力になろうとしても、悲しむ患者さんやご家族に気持ちが引っ張られてしまい、一緒に動揺して右往左往してしまいます。結果として、患者さん本人に適切な対応ができなかったり、他の患者さんの危機に気づかなかったりする危険性もあります。

「智慧」だけでは、人がいつか亡くなるのは必定のことだと分かっていたとしても、だからこそ辛くて悲しいのだ、別れ難いのだという、患者さんやご家族の気持ちに気づかない恐れがあります。他者の気持ちに寄り添うことは、時に長く困難な道のりですが、大切な人だからこそ生まれる人の情を無視してしまうことは論外です。

 

とはいえ、我々みながいつも完璧でいられるはずがありません。

 

元来、仏様、菩薩様というものは、人の身では届かないほど沢山の生き物に何万回も生まれ変わり、無数の立場に立って物事を捉えられる存在です。

ですから、我々凡夫(ぼんぷ)、一人ひとりの小さな人間が一朝一夕に真似をするのは大変難しい。心がけていても、疲れていたり、余りに傲慢な人を目前にすれば智慧も慈悲も働きにくいでしょう。

しかしそれでも、「どうせ無理だ」と思うことなく、心の奥底に、この「智慧」と「慈悲」という心を持ち、苦難のときも、何もかも投げ出したくなったときも、一度投げ出してしまったときも、思い出して頂きたいと思います。