聖号十念

11月も10日を迎えてしまいました。先日勃発した戦争について、同じ宗教者として何か書かねばと思ったのですが、

3000年以上、民族と宗教が絡んだ根深い問題であることが調べれば調べるほど浮き彫りになるばかりでした。一介の僧侶が語れる範囲の問題ではございませんでした。

浄土宗は「教義のために他者を害せよ」という経文には依りませんが、寺領や自宗を護るために武器を取ることもなかったとは言い切れません。どんなに良い教えでも、伝道者が命を落せば滅んでしまいます。現代において、僧兵の代わりに日本の国土と生命を護ってくださる方々には感謝しかありません。

亡き方々のご冥福をお祈りいたします。

さて先日、鬱病から回復してきた父と長話をする機会がありました。皆様の温かいお支えのおかげで、健康な人とほとんど見分けがつかないほどになりました。

仕事一筋の人生から一変、職を辞した当初はひどく落ち込んでいましたが、最近は図書館やスマートフォン教室に通い、同級生と賑やかに談笑するのを楽しみにしているようです。父はこのように申しておりました。

「70歳を過ぎても、自分は生涯現役でい続けるのだと信じていたが、人生とは分からないものだ」

確かに、人生とはままならぬものというのは仏の真理ですし、病気はまさに思い通りにならないことの象徴でしょうね。

「でも、病気をして初めて分かったことがある。この国の人たちは本当に優しい。バスに乗れば席を譲ってくれる。うまくできなくても温かい言葉をかけて励ましてくれる。高齢者にとってこんなにありがたい国はない」

おお…。父からこれほど大きな感謝の言葉が聞ける日が来るとは…。

父は長年、病院経営者として、数字と競争に追われるような仕事をしてきました。お寺にしても、戦争で本堂が壊れ、子供の頃から苦労が多かったと聞きます。自分にも他人にも厳しくせざるを得ず、心の休まる間も少なかったのだと思います。病気になったときも、「仕事ができなくなった自分」「お金を稼ぐことができなくなった自分」を責めさいなんでいました。

「阿弥陀様はそういう仏様じゃないですよ」と何度も伝えてはみましたが、ずっと長い事、世間の厳しさ冷たさが骨身に沁みてきたのだなあと想像できるような反応でした。あれから何年も温かく接してくださる皆様のおかげで、やっと毎日安心して暮らせるようになったのだと思います。

本日のタイトル「愚者の自覚を 家庭にみ仏の光を 社会に慈しみを 世界に共生(ともいき)を」は浄土宗の21世紀の劈頭宣言です。この理想で世が満たされれば、苦しむ人はずっと減るでしょう。

しかし、理想通りには行かないのが俗世の難しいところです。人が関わるものには「限り」があるからです。

地球の資源には限りがあります。試験に合格する人、おいしい思いができる人、誰かの支援を受けられる人、命が助かる人などなど…。枚挙にいとまがありません。

ただ、そんな世知辛い世の中でも、自分の時間や心やパワーを使って、弱い人たちを支えようしてくださる方々がおられます。往々にして数字に出てこないかもしれませんが、父はそんな方々のこころに救われたのだと思います。

100%仏様そのものでなくても、仏様の心のかけらを持っている人たちがこの国には沢山いるということを是非お届けしたく、今月の記事とさせていただきました。

父は次回の同窓会でスピーチを任されたと張り切っております。80歳を超えた同級生たちを励ますような話を考えているそうです。皆様の心の温かさが父の心を温め、父からさらに多くの方々にぬくもりが広がっていく様を思い浮かべると、ありがたさに我が目にも涙が浮かんでまいりました。

当山にご縁をいただく皆様方も、より広い世の全ての方々にも、良いご縁が訪れますよう心よりお祈りしております。合掌

三界萬霊 有縁無縁 乃至法界 平等利益 南無阿弥陀仏