筆耕・文責:石井綾月

ご無沙汰しておりました。住職の與芝眞彰です。

10月頭に体調を崩し入院しておりましたので、前回から大分間が空いてしまいましたが、おかげさまで無事退院して参りました。病みついてより、長らく本調子とは行かない状態が続いておりましたが、今回は治療の方針が良かったようで、すっかり元気になり病院勤めも再開することができました。当山を支えてくれた寺院関係のスタッフの皆様、並びにご不便を忍んでくださった檀信徒の皆様に御礼申し上げます。

入院中、することもなくただ横たわっているときに、様々な思い出が私の裡を駆け巡りました。私は昭和18(1943)年の生まれで、まだ戦後のモノがない時代に育ちました。教育に厳しかった先代住職のもと、教材も少ない中でなんとか東大に合格し、教授室の先輩の導きで劇症肝炎と闘う道へ進みました。以来、戦後の復興とバブル時代の中、昭和のモーレツサラリーマンのごとくひたすら医業に邁進してきましたが、今改めて昭和の時代を振り返ってみたいと思います。

日本が敗戦して焼野原から復興を始めたのが昭和20(1945)年のことですが、私の両親の世代の方々が必死に働いた結果、昭和28(1953)年には早くもシャープが初のテレビを生み出し、NHKが放送を開始しました。1950年代は「白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫」が「三種の神器」と呼ばれ、昭和33(1953)年の皇太子ご成婚ブームのころは爆発的にテレビが売れました。当時のテレビは大変なぜいたく品でしたので、我が家でも3日間借りることしかできませんでした。街角で販売されているテレビに人々が群がり、一緒に力道山が闘う姿を応援したのを覚えています。

昭和31(1956)年の経済白書で「もはや戦後ではない」と言われましたが、その後も日本経済は成長を続けました。

三種の神器

1960年代の三種の神器は「カラーテレビ・クーラー・自動車」で、テレビはサラリーマンの月収4か月分、クーラーは3か月分程の値段でした。「頑張って働けば夢の神器が手に入る」という風潮で、車の立派さがその家の豊かさを示していました。先代住職はオートバイで往診をしていたのですが、ある日鉄板にタイヤが滑って顔面を負傷して帰宅し、それを見た私の母が発奮して昭和33(1958)年に自動車を購入しました。当時は珍しいものでしたので、町中の人がドライブに行きたいと我が家を訪れ、一躍人気者になってしまいました。あまり頑丈な車ではなかったため、ドライブに行った先で故障してしまい、みんなで山道を車を押すハメになった、などという笑い話もあります。

クラウンが発売されたのが昭和35(1960)年、ダットサンが昭和36(1961)年、サニーが昭和40(1965)年、カローラが昭和41(1966)年と、日本の復興と自動車は切り離せないものでもありました。良い車を持っていれば女性にモテる時代です。「いつかはクラウン」などというフレーズが生まれたのも昭和48(1973)年のことで、今ではタクシーなどで見慣れているクラウンも、当時は世間の憧れであったことが伺い知れます。

当時のカタログより

また、昭和40(1965)年には、アメリカのテレビドラマ「パパは何でも知っている」が日本でも放送開始されました。画面の中には、アメリカの理想の家庭、庭付きの一戸建てにペットの名犬、父親は夕方に帰ってきて一家団欒、という夢のような世界が映し出され、日本人はこの姿を理想としてマイホームを目指すようになりました。

昭和53(1978)年に長女が生まれましたが、「男が立派な仕事をしたければ女房子供は質に入れろ」という言葉が当たり前のように使われていた時代でしたので、私はひたすら仕事に打ち込み、家庭のことは家内に任せていました。

「頑張っていれば給料も上がり、欲しかった『モノ』が手に入る」と皆が頑張った時代の後、昭和61(1986)年から平成3(1991)年にかけ、空前のバブルが起きます。「モノ」の値段が不自然に跳ね上がり、不動産や美術品に大金が支払われ、接待の名目で夜の街に大金が降り、若者は親のお金で華やかな服に身を包み、自由な恋愛を謳歌していました。この時代から、モノが世間に溢れかえり、「何が本当に欲しいものなのか」が分かりにくい時代となったように思います。

バブルが崩壊したのが平成の頭ごろです。平成元(1989)年に38.915円であった株価は1年間で2万円を割り込み、日本全体の土地資産額は平成2(1990)年から平成14(2002)年までの間に1000兆円近く減少しました。日本中でリストラや新規雇用の絞り込みが行われ、「氷河期世代」などという言葉も生まれました。私の長女が東京大学に入学したのが平成8(1996)年のことでしたが、女性の就職戦線はかなり困難なものだったようです。

その後はニュースなどで取りざたされているように、日本は長期のデフレに苦しみます。かつてのような「常識」が通用しない局面が増えてきました。

現代の若者はよく「若者の○○離れ」と言われますが、「世間と同じものを持っていなければ一人前とは見なされない」というかつての風潮に対するカウンターではないかとも思われます。

私たちの世代は、「世間に認められたい」「女性にモテたい」などという我欲もありましたが、家族のためにも粉骨砕身してきた方が多かったのではないでしょうか。人前で涙を見せたり甘えたりすることは許されず(その代わり小料理屋の女将や夜の蝶に甘えることもできましたが)、仕事こそが生き甲斐で、趣味も多くなく、退職後は何をしたら良いのか分からず女房には邪険にされる。男性の自殺率が女性の2.5倍に上るのは、自分で自分の逃げ場所を封じてしまう気風によるものかもしれません。

そんな私たちの世代の背中を見ながら、インフラやモノが豊かな時代に育ってきたのが現代の若者たちです。就職が困難な中、やっと手に入れた初めての職場を辞める理由の第一位が「仕事が自分に合わない」だそうですが、彼らは仕事に給与や労働条件よりも、むしろ生きがいや夢を求めているそうです。

こうして振り返ってみると、なんと隔世の感があることでしょうか。

私が子供の頃は、当山の周りのあちこちにスラムのような街並みがあり、雨が降れば地面は泥にまみれていましたが、今は水はけのよいレンガが敷き詰められ、川は悪臭を放つこともなくなりました。昔は晩御飯を食べそびれたら水を飲んで寝るしかありませんでしたが、今は少し足を伸ばせば100円のおかずが並ぶコンビニがあります。昔のパソコンと言えば大卒初任給ほどの値段でしたが、今は驚くほど多機能なスマートフォンを若者が使いこなしています。昔は金がなければヒマでたまりませんでしたが、今は月額いくらか払えば、とても見切れないほどのテレビ番組が溢れています。

一方で、「モノでは解決できない、見えない苦しみ」が増えたように思います。豊かになった結果、私たち一人一人に求められるものの水準も上がってしまいました。昔は女房子供を養えていれば一人前でしたが、今は高卒で働ける正社員の職場は機械やパソコンに奪われてしまったため、高額な大学進学費用がかかります。少子化の原因は、結婚率の低さであって出産率は昔とさほど変わっていません。昔は見合いでなんだかんだと結婚していたものが、自由な恋愛を楽しむことができるようになった反面、「人に選んでもらえない苦しみ」が生まれました。単純作業の職が減った結果、「気遣い」「コミュニケーション能力」「アイデアを出す力」などが求められ、人付き合いが苦手な人や、不器用なタイプの人の居場所が狭くなっています。昔のいじめは暴力の伴う露骨なものでしたが、今のいじめはスマートフォンなどを駆使したより見えにくいものになりました。商品が溢れかえった世の中では「どの商品を選べば人に称賛してもらえるのか分からない」という「選ぶ苦しみ」があります。

迷惑行為を働く高齢者、目立つために動画投稿サイトで愚行を披露する若者たち、ゴミを大量にため込む人、実際に被害に遭っている方はたまったものではありませんが、「居場所がない苦しみ」「誰にも見てもらえない苦しみ」「自分を尊重してもらえない苦しみ」などが見て取れます。豊かな時代になったため、表面への現れ方としては新しいものに見えますが、この苦しみははるか昔から人が普遍的に抱いてきたものでもあります。

浄土宗では、「阿弥陀仏という仏様は、南無阿弥陀仏と名前を呼んでくれる人は誰でも、臨終のときにかならず迎えに来て下さり、悩みも苦しみもない極楽浄土という国に旅立てます」と教えておりますが、これは「死ねばラクになる」という意味ではありません。

時代がどんなに変わっても、私たちには皆それぞれの苦しみや罪がありますが、阿弥陀仏という仏さまは決して見捨てることなく、全てを分かってくださっておられます。ですから、生きている間は辛いこと、落ち込むこと、もう立てないと思うことがあっても、阿弥陀様がついてくださっていると思って、お念仏をしながらまた立ち上がって生きていきましょう、という教えでもあるのです。

弥陀三尊

今回は随分長いお話になってしまいましたが、いつもはご先祖様、亡くなった方に向けてお唱えしているお念仏を、ご自分にも向けてお唱え頂ければと思います。阿弥陀様はこちらが心を振り向ければ必ず応えてくださる仏様です。南無阿弥陀仏 合掌