筆耕・文責:石井綾月

松光院殿の墓

住職の與芝眞彰です。

前回に引き続き、「松光寺と松平家の縁起」についてお話します。

老中在職中に亡くなった五代目信之公の後をわずか13歳で継いだ六代目忠之公。事件当時忠之公はまだ19歳でした。その背景には、将軍、徳川綱吉の姿が伺われます。

忠之家督相続の6年前に五代将軍に就いた綱吉は、治世末期の悪政を俗に「犬公方」などと揶揄されていますが、上下を重んずる儒学に造詣の深い勉強家で、精力的な政治を行ったことでも知られています。儒学の中でも権力者の統治と相性のいい朱子学に綱吉が傾倒していたため、実践によって現状を変えて行こうとする陽明学は当然のことながら睨まれていましたが、忠之が家督を継いだ年に蕃山が著した「大学或門」の内容が政治的な決定打となります。
治山治水論、農兵論、貿易振興、参勤交代廃止、鎖国の緩和という批判思想は幕府にとって到底看過されないものであり、翌年、幕府は忠之に蕃山の完全な幽閉を命じ、その5年後に蕃山は没します。

また綱吉は、幕臣の言いなりであった四代家綱時代への反動により、将軍の権勢を取り戻すため、家康直系の親藩までをも含め数々の大名の改易を行い、その数は治世29年中、46家に及びました。「忠臣蔵」で有名な赤穂浪士の赤穂藩の改易もこの時代のことです。
蕃山亡きあとも、忠之が強い圧力下に置かれていたことは想像に容易く、そして事件は起こりました。

蕃山没後わずか2年、忠之20歳の1693年。突如乱心したという理由で、忠之は改易されてしまいます。
この改易事件には不自然な点が多々ありました。乱心されたとする日、老中の使者が忠之の江戸屋敷に入り、何らかの議題の結果、その夜突然、忠之が小刀で自らの髪を切ります。通常であれば当主の異変を伏せるはずの家臣がなぜか翌朝、乱心を幕閣に注進し、その日のうちに忠之の改易が決まったのです。

真相は不明ですが、幕府の思惑通りに藤井松平家は改易となりました。由緒ある家柄ということで完全なる取り潰しは免れ、弟である分家の信通に家督相続が認められたものの、8万石あった所領は2万石に減ぜられ、旧領の1万石とあわせて3万石の備中に移ることとなり、後に出羽の上山(かみのやま)藩に転ぜられました。これが上山松平家の起こりです。
石高減に伴い、多くの家臣が暇を出され、杉田甫仙も浪人となりますが、その後若狭の小浜酒井家の藩医となり、二代目甫仙を経て、孫の杉田玄白が医学に大きな一歩を示すこととなります。

その後の上山松平藩は、小藩ながらの財政難や一揆に苦しみながらも、学問重視の気風を貫き、十三代信行公の代では藩校、天舗館を設立しました。明治維新の戦争で、幕府の忠臣として戦った為、新政府で重用されることはなかったものの、維新後の鉄道敷設計画の際には松光寺を英国人技術宿舎として提供し、そして現代に至るまで松光寺の檀家としてご参拝を頂いております。

以上が松光寺と松光院殿、藤井改め上山松平家とのご縁です。

改めて見ると、いわゆる天下泰平と詠われた世に隠された、激動を生き抜かれた松光院殿のお姿が浮かび上がってきます。
松光院殿のご出身は徳川家康の近習であった戸田家と記されています。老中まで勤めた名君、信之公を息子に持ち、所領は富み、時期は遅かったものの孫にも恵まれました。
しかし、参勤交代の原則は「正室と世継ぎは(人質として)江戸に住む」でしたから、故郷を離れた江戸の屋敷で心細い思いをされることもあったかもしれません。
息子を亡くして後は、幼い孫の忠之の家督相続、そして改易、弟信通への家督相続と石高減に伴う転地など、藤井松平家空前絶後の危機に襲われることとなります。
改易後の忠之は、弟信通の預かりとなったものの、2年後の1695年、わずか22歳で江戸にて生涯を終えられました。祖母として、どれほど心を痛められたことでしょう。

松光院殿の没年については、近世の女性はあまり記録が残されていないためはっきりしませんが、おそらく松光院殿の生涯に寄り添ったであろう松光寺の僧侶が、1711年に没した中興行蓮社流譽迎阿團英上人です。
「中興」とは、寺院の存続に尽力した僧侶に送られる号ですので、松光院殿からお名前を寺号に頂戴し、揺らぐ松平家をお支えしたことが偲ばれます。

また、松平家の歴史は、その栄枯盛衰を通じ様々なことを示唆してくれています。

世俗で高い地位を得て、富や人望を得たにも関わらず、松平家の繁栄は長くは続きませんでした。信之公の家督相続から逝去まで28年、その後忠之公改易まではわずか7年です。
「学問を修める」ことは、一般的には良いこととされていますが、学問熱心だったことで却って足を掬われることとなりました。急激に増えた富や領民からの人望は、将軍のみならず、政敵からの嫉視、危険視のもとにもなったでしょう。「一切皆苦」の言葉のとおり、人の世は「思い通りにならないこと=苦」にあふれており、良かれと思ってした努力も回りめぐって災いの元ともなりえるのです。

しかし、政争には破れましたが、人が後世に残すものは個人の富や名声だけではありません。
松平家の石高は減りましたが、各地に残された新田が消えたわけではなく、沢山の民が飢えから救われました。
松平家に伝わる「温故知新、進取の気性」の家風が途絶えなかったことは、後世の学校創設、新技術誘致の支援などの事業に現れています。
杉田家は松平家からは去ったものの、家業の医学を継承し続けたことで、子孫の杉田玄白は近代医学の礎に大きく貢献する『解体新書』を著しました。

また、後世への遺産は、「血」や「家系」によって継がれるものだけには留まりませんでした。
各地に残された新田開発の技術は現地に残り、現代に至るまで信之公の尽力は領民に感謝されています。杉田玄白の医学の知識は、印刷技術によって書籍化されたことで大量に複製することが可能となり、多くの医師に新たな地平をもたらしました。
互いに親しい友人という訳ではなくとも、人と人とが縁によって結ばれ、意見を交わし、目的のために協力することで生まれる気風、たとえば社風、校風と言ったものは、時代を超えてゆるやかに保たれます。人の命は短いものですが、人間同士の繋がりから生まれたものは、その儚さを超えていくことができるのではないでしょうか。

松平家の代々の当主と、松光寺の歴代住職の間にも、宗教学にとどまらない様々な交わりがあったことは想像に難くありません。
江戸時代の浄土宗僧侶は、血縁を通じて子を残す代わりに、浄土宗の教えのみならず、文化風土、生き様といった目に見えないものを伝えてきました。歴史ドラマの場面にあるように、当主が決断の岐路に立たされた際に、仏の道からの普遍的な教えを説くこともあったでしょうし、住職自身が檀信徒の悩みから学ぶことも多くあったでしょう。
菩提寺として松平家に寄り添い、交わることで、「学問をなし、世に尽くす」という「社風」ならぬ「寺風」は現代まで受け継がれました。師弟関係やお檀家様とのご仏縁を通じて、前の世の中の智慧を後の世に繋げて行くことができたのです。

今回は、松光院殿のまなざしを通じ、歴史のお話をさせていただきました。
歴史は私たちに様々なことを示唆してくれます。教科書に書かれる大きな歴史だけではなく、土地や家にご縁のある身近な歴史に触れてみてはいかがでしょうか。