聖号十念

令和も四年目となりました。昨年は様々な悩みが多かった年のようにも、思い出が少なくあっという間に過ぎ去ってしまったようにも思えます。年明けより再び不穏な世相となってまいりました。昨年とはまた状況も違い、様々な事情や立場の方々が、それぞれ異なる見解をお持ちのようです。2年前のように「何が何だか分からない」真っ暗闇のような状況ではありませんが、事態が複雑になった分、うかつに自分の意見も言えない息苦しさを抱えている方もおられるでしょう。また、「またあれこれ諦めなければならないのか」とうんざりした気分の方もおられると思います。

何かとネガティブなイメージを伴う「諦める」という言葉ですが、仏教では「明らかにする」という意味があります。お釈迦様は「四諦(したい)」という教えの中で、次のように説かれています。

①「苦諦(くたい)」…この世というのは何かとままならない(=苦)ものである。生まれる場所も環境も選ぶことはできない。時は巻き戻せない。命あるものには必ず終わりがある。自分を完璧にコントロールすることはできない。欲しいもの全ては手に入らない。煩わしい人付き合いがあり、大切な人を失うこともある。(=四苦八苦)

…確かに世の中そんなものかもしれませんが、絶望的な気分になりそうです。ですが、「もともとままならないものだ」という覚悟があれば、不意打ちで理不尽な目に遭って大ショックを受けるよりマシかもしれません。

②「集諦(じったい)」…そんなままならぬ世の中で、悩んだり苦しんだりするのは何故か。それは、未練だったり執着だったり、尽きぬ欲や煩悩があるためである。

これは異論反論が多そうです。全ての意欲を失い、ロボトミー手術後のようになりたい人はいないでしょう。お釈迦様も何もせずただ生きていたわけではありません。また、「大事な人に幸福でいて欲しい」「患者さんの命を救いたい」「世界一の〇〇になりたい」など、進歩の源になる欲もありましょう。ですが、「大事な人に幸福でいて欲しい」と願った分だけ、不幸への恐怖や不安が大きくなります。相手にとって自分が大事ではなかった時には恨みや怒りが生まれます。長寿はおめでたいことではありますが、人口爆発や高齢化に繋がります。世界一位の栄光の裏には、二位から最下位の人たちの涙が隠れていて、有名になれば妬みを買うことも増えてしまいます。

「一見プラスのこと」にも実はマイナスが必ず隠れている、というのも時代を超えたこの世の真理です。良いことがあっても浮かれ過ぎずに思いやりを持つことで、うまくいかない日は誰かが力になってくれるかもしれません。また、「一見マイナスのこと」もプラスの力を鍛える源となるかもしれません。

続く③「滅諦(めったい)」④「道諦(どうたい)」では、執着を手放すことにより苦しみから逃れ、「八つの正しい道(八正道)」を歩むことで仏様のような悟りに境地に至れると説かれています。悟りを啓くことは僧侶にとっても至難の業ですので、今回は省略します。

お釈迦様の生きた時代は、現代よりはるかに「分からないこと」が多く、天災や病気に対してなすすべがありませんでした。しかし、お釈迦様は「何もかも諦めろ」と言われたのではありません。「何ができて、何ができないかをはっきりさせましょう。その上で、できないことにはとらわれず、できそうなこと(仏教徒の場合は仏への道)をやっていきましょう」と言われたのだと思います。

「皆とワイワイ大宴会」は「今は」やめてほしいと言われています。もう丸二年、同業者とほとんど会えていないので、私としてもしんどいところです。

ですが、ただでさえ諦めてガッカリした上に、誰かへの怒りを抱えて日々を過ごすのでは、辛さが倍増しになってしまいます。

「次に会う時に、もっと楽しく過ごすため」と気持ちを切り替えて、カラオケの練習をしたり、話のネタの引き出しを増やしたり、体を動かして体力をつけたりすることは「今でも」できます。

私はと言えば、家庭用ゲームで筋トレとボクシングを始めました。色々なモヤモヤをパンチに載せるのでスッキリしますし、体力がある人間が一人でも増えれば、周り巡って世の中の誰かが助かるかもしれません。

外を歩いて風景の写真を撮ることも増えました。ズームしたらピンボケてしまったのですが、夕焼けに照らされた雲がとても美しかったのでお届けします。

お彼岸などの行事について、全ての方が満足する方策は存在せず、寺院としても悩ましいのですが、対策を尽くして厳修できればと願っております。一日も早く、明るい兆しが見えますよう、日々祈念申し上げます。合掌

如来大慈悲 哀愍護念 南無阿弥陀仏