聖号十念

ブログのテーマが〆切10月20日の前日になってもおぼろ豆腐のごとき状態なので、気分転換にコンビニに出掛けたらお天気雨が降ってきました。

ピンボケまだらの涙空。ここ数か月の私の心模様のようです。

報道では連日連夜、宗教に関わる話題を取り上げており、僧侶として心がざわつかない日はありません。高額な寄付商法を見ると「うちはそこまでアコギな目安をお知らせしてはいないと思うけれど、それでも高いと思う人はいるだろう。自分が本当にその額に値する法要をなしえているものか」と悩みが深まります。

前回の記事で「ものの価値」が揺らいでいる時代だと書かせていただきましたが、思えば昔から「ぶっ飛んだ値段の商品」は存在し続けています。元素記号Cは、「結局はただの炭素」でもダイヤになれば木炭の何億倍の値が付きます。どうも「ある程度の人数が『これは価値があるのだ』と合意すると『価値がある』ということになる」ようです。子供の落書きにもオークションで高値を付ければ価値を吊り上げることが可能です。こうなると、為替や世界経済も絡んで来るので、全てを把握することは人間には不可能な地平になってきます。技術が進みネット社会になっても、道具が変わるだけで人の欲を煽る手法は変わらないようです。

また、「周囲がギョッとするようなお金の使い方」は古今東西枚挙にいとまがありません。「そんな〇〇にお金を使うならもっとマシなことに使え」と物申されてしまうようなことは星の数ほどあります。ざっと思いつくだけでもいわゆる飲む打つ買うをはじめ、薬物、マルチ、占い、ペット、蒐集、投げ銭、追っかけ、推し活、ブランド、民間療法、投機など…昨今では国際ロマンス詐欺という新たなボッシュートが生まれました。御家庭内において悪妻やドラ息子が浪費する大金はもちろんですが、家族のためを思うからこその使い道だとしても、裏口入学の賄賂や犯罪のもみ消しなどは世間を憚るものですね。「長い目で見て何が真っ当なお金の使い方なのか」を見抜き、正しく実行するのがいかに難しいことかを示しています。

では、このような「本人にとっては重大事だが、周囲にとっては愚行」に大金が費やされてしまい、未来が危うくなる状況をどうしたら変えられるでしょうか。国会と議員は法律をつくり予算を付けることはできますが、反社と認定しづらい小集団に強権を発動するのは苦手です。良心のあるなしを根拠に被害者を24時間監視しても、当人の行動を止めることは難しい。そもそも何が愚かで何がそうでないかを誰が決められるというのでしょう?正義を標榜できる職務でも、他人の脳みそや心に手を突っ込んで『正しい?』方向に捻じ曲げることは憲法上許されない。「戦時中に人の思想を無理やり変えようとしたことへの反省」もこの問題をデリケートにしている一因でしょう。宗教法人格を剥奪しても、活動が地下に潜り実態が把握できにくくなるだけに過ぎない。若者たちからすれば、ここ一連に対する大人の対応策は、さぞ生ぬるく鈍重に見えることでしょう。しかしながら「全員が漏れなく納得する対処方法が存在しない問題がある」というのは、いつの時代にも通じる普遍の真理です。

そもそもなぜこうした悲劇が起きてしまったのでしょうか。

浄土宗では、「人は皆いたらぬ者、凡夫(ぼんぶ)である」と教えています。どんな方にでも弱い所があり、強い人でも弱ってしまう時があるという意味です。阿弥陀様という仏様は、そうした人々の弱さをご存知の上で、やらかしてしまったことについては事情を含め分かってくださる仏様ではありますが、御仏縁に恵まれない方をゼロにすることはできません。

(ここからは事件の遠因について一僧侶なりに考えてみたことを書かせていただきましたので、お気持ちが辛い方は読むのをおやめいただいた方が良いかもしれません。)

 

 

 

 

 

 

 

お金持ちの家に生まれれば、一見強みがありそうに見えます。しかし、もし我が子が病気になり、私の育て方が悪かったのか、どんな手段を使ってでも治してやりたい、とずっと独りぼっちで悩んでいたら。そして、そんな時「あなたは何も悪くない、あなたの居場所はここにありますよ、いつでもいらっしゃい」と暖かく抱きしめてくれる腕があったなら、私は飛び込まない自信はありません。その腕に鋭い爪がついていて、この先何十年もかけて家族も財産もズタズタにされるなど、予見できるものでもないでしょう。

浄土宗の寺院は一体何ができたでしょうか。戦後、多くの方が故郷を離れて上京し、一家を成されましたが、その際菩提寺と縁が切れてしまう方も多くありました。また、明治時代以降、寺院は廃仏毀釈や農地改革で力を失い、駆け込み寺としての機能が弱くなってしまいました。人一人の生活費を集団で丸抱えする教団方式にはコスト上の強みがあり、新興宗教が困窮者の受け皿となってきたのも事実です。全ての財産を召し上げられる代わりに生き方を全部決めてもらえるという契約が「ちょうどよく効く」人もいます。

また、浄土宗を開かれた法然上人は、病気や寿命についてかなり厳しいことをおっしゃっています。

「人間には与えられている運命というものがあって、病気を治してほしいと、どれだけ神仏に祈ったところで同じなのだ。祈って、病気が治ったり、寿命が延びたりする事があれば、誰一人として、病気で死ぬ人がないはずだ(『浄土宗略抄』)」

当時は加持祈祷をする宗派が活躍していた時代ですので、この言葉はかなり反感を買ったようです。「病は気から」とも申しますので、「偉いお坊さんが祈祷してくれているのだからきっと治るはずだ」という信仰が効き目となって現れることもあったと思います。また、貴族社会では、我が子が長らえ帝になるかどうかに一族の命運がかかることもありましたので、あらゆる手段に頼らざるを得ませんでした。そんな人の弱みに付け込む風潮に対するフレーズであったのだろうとも思います。しかし病床に横たわるご当人やご家族にとってはシビアで辛い言葉でしょう。

残念ながら、浄土宗では、魔法の力で病を消すことはできません。「仏様方は皆様を護ろうとしているが、因果律を捻じ曲げることはできない」という立場です。病中の方やそのご家族に対しては、精一杯今のお気持ちに寄り添った上、極楽浄土の阿弥陀様や先に往かれた方々が、ご当人の頑張りやご家族のお心を見守っておられる、とお伝えさせていただきたいのですが、24時間対応はできず、中々病床に伺えないのも自らを省みるところです。お念仏は効き目が薄いからと、他宗を頼られるのもご無理はないかと存じます。

また、仏教では嘘を言うことは基本的に良くないこととされていますが、「嘘も方便」という言葉の表すように「長い目で見て相手に善かれと思ってかけた言葉なら、例え嘘でも仏の言葉である」というお釈迦様の言葉があります。いざ病の方やご家族を目の前にしたとき、できるだけ励ましたくて「きっと良くなるよ」と気休めを言ってしまい、後で後悔したというお話も聞いたことがありますが、慈しみの心から出た言葉は仏様の言葉です。その点はご自身を労わっていただければと存じます。阿弥陀様はそんなあなたの優しさを、尊いものとご覧になっておられます。

ここまで迷いながら考えを進めてまいりました。プロの弁護士が20年以上かかっても解決し切らない問題を、一介の僧侶が解決できるわけもないのですが、社会の一員として自分に何ができるだろうかと考える機会をいただいたと思い、今後もテーマとして心に留めて参ります。

阿弥陀様は、亡き方々をいつまでもお護りくださる仏様でもありますが、「私たちがリアルタイムで悩んでいる課題」にも、飽きることなく呆れることなくずっと思考に寄り添う仏様でもあります。浄土宗の根本経典によると、阿弥陀様の本体は宇宙を超えるサイズの心のスケールの大きさを持っているけれど、皆様一人一人を大切にしようと「あなただけの阿弥陀様として分身している」そうです。

私と阿弥陀様との彼我の差は計り知れぬ距離ではありますが、今後も檀信徒の方お一人お一人のお気持ちやご事情を、かけがえのないものとして汲み取り、より善い言葉でお辛さを和らげられるような、そんな僧侶となれるよう精進したいと存じます。合掌

如来大慈悲 哀愍護念 南無阿弥陀仏