聖号十念

紅葉深まる季節となりました。先日、1年半延期されてきた会合に出席する機会をいただき、久方ぶりに箱根まで旅してまいりました。

湘南新宿ラインで小田原まで下り、箱根登山鉄道で箱根湯本へ。運賃が1500円以内に収まるお手軽ルートです。小田原まではひたすらに住宅街(たまに農地)が続きました。あれは昭和の公団か、あの戸建ては平成の建築っぽいな、などと各時代のご家庭を築かれた方々に思いを馳せつつ車窓を眺めて過ごしました。登山鉄道に乗るころには日が暮れてしまったので、以降の道中はほぼ闇だったのですが、次の日ホテルを出たら、見事な紅葉に恵まれました。

5年近く「山」と呼べるものを目にする機会がなかったため、スケールの大きさ、色彩の鮮やかさに圧倒されました。タクシーに乗ってしまうのはもったいなく思われ、友人と連れ立って帰りは徒歩で駅を目指しました。

未だ一切の外出ができない方を思うと恐縮ですが、貴重な時間をいただきました。

さて、本日のお題ですが、まるで小学校の校長先生が掲げそうな標語です。これは仏教の教え「諸悪莫作 衆善奉行」という言葉がもとになっており、出典は「法句経」という初期仏教の経典です。簡単すぎて笑ってしまう、と思った詩人が今から1200年ほど前、唐の時代にもいました。名を白居易。ある日彼は道林禅師という禅僧を訪ね、仏教とは何ぞや、と問いかけます。禅師はこう答えました。

道林禅師「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教(しょあくまくさ しゅぜんぶぎょう じじょうごい ぜしょぶっきょう)」

=悪いことをなさず、善いことをし、自らの心を清める、これこそが仏の教えである」

白居易「悪いことはやめていいことをしよう?そんなん3歳の子供でも言えますやん」

道林禅師「そうかね。私は80歳になるが、一度もちゃんとできた覚えはないが」

白居易はあっと気づき、礼拝して去っていったといいます。

子供でも分かるような簡単なことでも、「完璧に」「常に」「いつまでも」行うことは困難を極めることです。人の心は揺らめきやすく、この世の理不尽さ(=苦)に遭ってしまうと、これぞと心に決めたことでも続けられなくなってしまうことがあります。また、「いいこと」とは一体だれにとってどのように「いい」ことなのでしょう?良かれと思ってやったことが裏目に出たり、悪気はないのにぶつかってしまった場合は許されるのでしょうか?また、「何が善か悪か」は、宗教や信条によって人それぞれです。普遍的な善悪の境界線を正確に引ける能力が人間に備わっているなら、世にこれほどの争いごとがないようにも思われます。

浄土宗では、そのような人のありようを「凡夫(ぼんぶ)」と呼びます。「凡」は「平凡な、とるにたりない」という意味ではなく「パーフェクトでない、どこかに漏れや欠けがある」という意味です。

阿弥陀様という仏様は、数えきれない程の方々が、各々の時代、各々の背景、各々の心をもって、「うまくいかないことに悩む」姿をご覧になってこられました。そして、全ての因果をお見通しの上で皆様方の心の支えになりたいと願い、どんな時でも味方であろうと誓った仏様です。

このところ、日常の様々なところで急激な変化が多く起こりました。大きな変化というのは文字通り「大変」なことであり、経済的な危機を伴う上、心にとって大きなストレスであると心理学でも証明されています。そのような状況下では仏様のような振る舞いは難しい。しかし、うまくできなかった日があっても、ヤケクソになったり、あきらめてしまう必要はありません。「南無阿弥陀仏」という言葉には、亡き方の冥福を祈る意味だけでなく、「阿弥陀様、どうか至らぬ私をよろしくお願いいたします」という意味もございます。阿弥陀様のお護りのもと、もう一度立ち上がってまた始められればよろしいのです。皆様お一人お一人の歩みを、先に往かれた方々は見守っておられます。

一人でも多くの方が、新たな苦難のもたらすダメージから護られますよう、心よりご祈念致しております。合掌

如来大慈悲 哀愍護念 南無阿弥陀仏