ほのかに暖かい風の吹き渡る季節となりました。春彼岸法要前のこの時期は、法話の準備や卒塔婆書きに勤しんでおります。卒塔婆の木材は一本一本、湿度も粘度も脂の乗り方も違い、まるで今を生きる私たち一人一人のようですが、墨の濃度や筆の運びを調整するのが工夫のしどころでもあります。
 正式に師事したことはないのですが、長らく手本とさせていただいているのが「顔真卿(がんしんけい)」という書家の字体です。
「顔真卿」は「王義之(おうぎし)」に並ぶ唐代の名書家です。平安時代には、遣唐使により数々の唐の文化が日本にもたらされ、日本の三筆(空海・御嵯峨天皇・橘逸勢)にも大きな影響を与えています。

 私と顔真卿との出会いはもう十年以上前になります。当時、書の拙さに悩んでいた私に、先住職が手本として紹介してくれた手本書の一冊が顔真卿の「多宝塔碑(たほうとうひ)」でした。

名だたる書家の手本を巡る中、「多宝塔碑」の本を開いたところで手が止まり、食い入るように一つ一つの文字に見入ってしまいました。文字のパーツの右側は力強い縦の線に支えられ、一方左側の縦線、横線や左払いは繊細で優美、文字全体の佇まいは細身で上品…。是非この方のような字が書けるようになりたいと感銘を受けたことを覚えています。

そのようなご縁を頂いた顔真卿でしたが、先日偶然地下鉄の駅で展示の広告を見かけ、喜び勇んで上野へ赴きました。

 場内には、顔真卿だけでなく前後の時代の名書家の数々の作品が展示されており、書の歴史を追うことができました。唐代以前の書が全体的に細身、流麗で洒落た書体なのに比べ、顔真卿の書は縦の線が正確に地面と垂直に配置されていること、縦線に対し横線が細いため読みやすいことから、現代の活字のフォント(字体)の礎になっているそうです。また、各展示の解説文が、「若い時代の書なのでまだまだ青い(意訳)」など、茶目っ気とも言える柔らかさに彩られていたのが印象的でした。名家の展覧会というと堅苦しく畏れ多いと思われがちですが、書を身近に感じてほしいという意気込みが伝わってきました。
 目玉の「祭姪文稿(さいてつぶんこう)」については、書体が乱れているためか手元の手本書にはありませんでした。

看板によると、「顔真卿の三稿」に数えられ、歴代皇帝が至高の書として保管してきたとの触れ込みです。一見すると殴り書きのような、書き損じもそのままの書がなぜ至宝なのか不思議に思いつつ解説を拝読しました。
 「祭姪文稿」は、戦乱で命を落とした「姪(息子世代の親族)」に対して書かれた弔文だったそうです。希代の名書家で忠臣と謳われた顔真卿のことですから、普段なら皇帝の目に触れる書は完璧に美しく仕上げていたことでしょう。しかし、この時はそうしなかった。もしくは、できなかった。それほど慟哭が深かったのでしょうか。あるいは、忠義の矩を踰えた何かを書によって訴えたかったのでしょうか。真実は本人や神仏のみぞ知るところなのでしょうが、後世の皇帝の心にも響くものがあったからこそ、貴重な書として現代まで遺されてきたのだと思います。時代背景や訳文を知ることにより、最初の印象が一変するという貴重な体験を致しました。一方、「なんで書き直さなかったんだろう…」と初見で思ってしまった自分は受験戦争の減点主義に毒されているのかも、と恥じ入る気持ちになりました。

 かように実りの多い観覧でございましたが、遥か1400年の時を超えて多くの人に感銘をもたらしている顔真卿の書を通じ、「手書きの文字」に関する様々な思い出が喚起されました。
子供のころ母に「手書きの文字が汚い」と叱られたためか、ワープロが一世を風靡しつつあるのに手書きの文字を日々練習する父に違和感をもっていたこと。一方で、僧侶となった後に、看板の大書や封筒の表書に芸術品のような筆致をものした先輩方に驚嘆したこと。そして何より、お檀家様から頂いた、数々の手書きの励ましのお手紙。
 パソコンやスマートフォンの時代、「便利・簡単・早い」が利益と直結する時代になってはおりますが、顔真卿の書が今も多くの方々の心を揺さぶるように、手書きのお手紙には年を経れども変わらない普遍的な尊さを感じます。そして、未だ拙くはありますが、私もその文化を受け継ぐ一石となれればと思っております。
 いつの日か、お手元に私の拙筆が届く日もあるかもしれませんが、その際はどうぞご笑覧いただければ幸いです。
合掌