寺庭のイロハモミジもほんのり色づき、朝夕の風の冷たさに秋の深まりを感じる今日この頃です。
この時期になりますと、4年前に急逝された親友のお母さまのことが思い出されます。
私にとっては学生時分から大きな御恩のある方で、通夜葬儀の際はお念仏を唱える声も震えそうになるほどでした。その後ご仏縁を賜り当山の墓所にお入りになられましたが、その時からいつも見守ってくださっているような気持ちでおります。あれから早4年、拙いながら一つ一つご法要をお勤めして来られたのも、お母さまの暖かいまなざしがありてこそではとしみじみ思う次第です。

さて、回忌法要の中には「本日のご法要の趣旨」を阿弥陀様にご報告する「表白」というお作法がございます。亡き方の年齢、回忌の回数により様々な文面がありますが、本日は表白の一つに引用された漢詩を一部ご紹介いたします。
「年々歳々花相似
 歳々年々人不同
(年々歳々花相似たりといえども
 歳々年々人同じからず)」

「毎年毎年咲く花たちはお互い似通っているけれど、
毎年毎年それを眺める私たちの心は移り変わるものであることよ」
というのがこの漢詩の意味であり、お釈迦様の教え「諸法無我(しょほうむが)」に通じる部分があります。
「諸法無我」とは、すべてのものは数えきれない因縁によって成り立っているので、物事だけでなく私たち自身も確固たる「我(が)」というものはない、というお釈迦様の教えです。
年を経るごとに、子供は成長し、幾人かは夫妻や父母となり祖父母となり、様々な経験を積んでゆきます。誰かのために働くことの大変さや尊さ、かつて自分を育ててくれた両親の思いがわかるようになる、という嬉しい変化もあるでしょう。その一方、徐々に心身が思うに任せぬ辛さ、親しい人を彼岸へ見送る寂しさを味わうこともあるかと思います。
回忌法要やお墓参りにいらっしゃる皆様方のお気持ちも、年々少しずつ変わっておられることと拝察いたします。

変わりゆき、何かを失っていくことは確かに切なく辛い側面もありますが、その気持ちを汲み取られ、皆を救いたい、力になりたいと思っていらっしゃるのが阿弥陀様という仏様です。
阿弥陀様の作られた極楽浄土という国に迎えられた方は数えきれないほどの寿命を授かりますので、お別れや喪失という苦しみはありません。いつまでも常に変わることなく、こちらの私たちを見守ってくださるのが、阿弥陀様やご先祖様はじめ有縁の方々です。

 私自身も、親友の御母堂の年齢に届くまで、これから様々な変化を経験することと思いますが、その都度墓前に良いご報告ができるよう、精進していく所存です。お墓参りやご法要は、これまでの変化を改めて振り返り、亡き方にご報告する機会でもございますので、命日など節目の日や、好天の折はぜひお寺にお参りいただければ幸いです。

合掌