ご無沙汰しておりました。
今年から、お彼岸などの事務作業を私が引き受ける事になったため、
責任の重さからか毎日緊張して過ごしておりましたところ、
お彼岸が終わって気が緩んだためか日ごろの不摂生か、
9月の終わりから10月の中旬ごろまでしつこい風邪に悩まされておりました。
急に気候が変わりましたので、体調を崩された方も多いのではないでしょうか。

さて、本日のタイトルですが、これは「浄土宗21世紀劈頭宣言」の一部です。
全てを記せば
「愚者の自覚を 家庭にみ仏の光を 社会に慈しみを 世界に共生を」となります。

最初のフレーズ、愚者の自覚について、今日はお話をさせていただきます。
法然上人は、秀才として知られる勉強熱心な方でしたが、
修行や学問をいくら重ねても悟りを得られない自らを愚者とし、
現世では難しい「悟りを得る」ために、
阿弥陀様のお力で極楽浄土にお導き頂いた後、修行を重ねるという義で
浄土宗という宗派を立てられました。

法然上人には遠く及びませんが、私も学生時代は勉強が得意な方で、
他はさっぱり自信がありませんでしたもので、自分の自信を勉強に頼っておりました。
勉強や仕事はできて当たり前、できるようになるまで努力するべきで、
そんな自分は正しいのだと自負し、驕っていた部分がありました。
事務作業を任される事になった時も、お塔婆を書く許可を住職に頂いた時も、
いくつか目標を立て、達成することに自信を持っていました。
事務処理ソフトや筆にも慣れ、油断が出てきたところでした。

しかし今回のお彼岸にあたり、致命的ではないものの、
書類の一部に日付のミスがあり、お檀家様からご指摘を受け、
(黙っていてくださった方も多くおられますが)
汗顔の至りとはこのことかと身にしみる出来事がございました。

今の世の中は、IT化で事務作業の手間ひまはほとんどなくなり、
私が学生時代にした「封筒の宛名書きのアルバイト」などは絶滅しかかっています。
ですが、機械を使うのは人間で、私は驕る余りに確認作業を怠っていたのです。
文面やデザインの見てくれを良くしようとして、肝心の中身が疎かになっていたのでは本末転倒です。

自分はなんと愚かで恥ずかしい人間なのだろうと恥ずかしくてたまりませんでした。
少しパソコンが使いこなせるからと、いい気になっていた自分が思い出されて
地面に穴を掘ってモグラになりたくなりました。
実際、布団の中で高熱で茹でモグラになっていましたが、
バチが当たったのかもしれません。

回忌のご法要がなく、年に2回きりのお彼岸以外は余りお目にかかれない方も
多くいらっしゃるのに、果たしてこれから信用してご法事を任せていただけるのか、
不安でしばらく落ち込みました。

しかし、この恥ずかしさこそが修行であり、
副住職で修行の身のうちに、この機会に恵まれて良かったのだと思い直しました。
この「愚者の自覚」を忘れずに、人に何ができるかを考えたほうが、
自己嫌悪に浸って何もせずにいるよりも良いと思えたのです。

自分が愚かな分、人の失敗に目くじらを立てるのはやめよう。
自分が愚かな分、他人を軽蔑しかかった時は自制しよう。
自分の愚かさに落ち込んでいたときも、じっと支えてくださる方々のために、
誰かが苦しんでいるときには笑顔で支えよう。

饅頭の薄皮一枚程度かもしれませんが、修行ができた思いです。

冒頭の劈頭宣言は、
愚者の自覚を(まず自分)→家庭にみ仏の光を(身内)→
社会に慈しみを(自分と関わり深い社会、自分に利益をもたらす場合が多い)→
世界に共生を(利害が対立する他者も全て含める)と、
対象がどんどん大きくなり、その分、実行も難しくなっています。
これはそのまま、人間の成長にも似ていると感じます。
子供の頃は自分で手一杯、若いうちは家族や恋人で手一杯、
社会参加するようになってから社会全体について考えるようになるけれど、
世界全体のこととなると人の身には余る事が多い、というように。

一生のうち、どこまでできるかは分かりませんが、
私の肉体が死んでも極楽浄土で引き続き修行はできるので、
(肉体の煩悩や差別がない分、『強くてニューゲーム』です)
焦らず、功を競わず、驕らずに行こうと思いました。

私事で恐縮ですが、お読みくださりありがとうございました。

合掌