寺庭の沈丁花も満開となり、馥郁たる香りに春の訪れを感じる時節となりました。当山有縁の方々におかれましては、時節柄なかなかお出かけもままならず、ご心痛のことと拝察いたします。

本年は、残念ながら無観客試合ならぬ無観客法要という形となりましたが、本堂におきまして春彼岸法要を厳修し、各家先祖代々のご供養をさせていただきました。阿弥陀様をはじめ、ご先祖様方の加護の増上を祈念し、父ともどもお勤めをいたしました。

また、本年の法話として「法然上人ものがたり」をお届けいたします。ご無聊の中少しでもお楽しみいただければ幸いです。

令和2年春彼岸会法話 「法然上人ものがたり」

本年は、「浄土宗を開いた法然上人ってどんな人?」をテーマにお話をさせていただきます。教科書には出てくるけど、あまり有名ではない法然上人。いったいどんな方だったのでしょうか。

<生まれ>

法然上人は、1133年、現在の岡山県、美作国(みまさかのくに)に生まれ、勢至丸(せいしまる)と名付けられました。「勢至」とは「全てを見通す智慧(ちえ)」を意味し、阿弥陀様の左隣におられる勢至菩薩様のお名前でもあります。

法然上人の父は、地元の警察・軍事を担う仕事をしていました。

<父との死別>

1141年、勢至丸が9歳の時、父の管理する所領で争いが起きます。現代と違い、当時は法律の力も充分ではなく、武力がものを言う時代でした。善戦むなしく、父は敵の矢に倒れ瀕死の状態になります。

ドラマなら、「父の敵を討とう」という展開になりそうなところですが、勢至丸の父は、苦しい息の下で息子に言いました。「もし、お前が私の敵を討とうとすれば、永遠の憎しみが連鎖する。どうか、敵討ちはせず、僧侶となり私の菩提を弔ってほしい」と。

時代柄、幼くして父母を失う子も多かったでしょうが、たった9歳だった勢至丸の悲しみは想像に余りあります。ですが父の言葉を享け、親戚の僧侶のもとで修行に入ることになります。その後才能を見出され、天台宗の大本山である「延暦寺(えんりゃくじ)」で学ぶようになりました。

<智慧第一の法然房>

一心に修行された結果、勢至丸は18歳の若さで「智慧第一(ちえだいいち)の法然房」と呼ばれるほどになります。今で言えば、スーパーエリートです。

そのまま天台宗にとどまれば、出世して朝廷に重宝されたり、宗派を盛り上げる道もあったかもしれません。ですが、法然上人は「今まで多くを学び、戒律を守ってきたが、仏に至る悟りは訪れない。私のような至らぬ者(凡夫・ぼんぶ)はどうしたら救われるのか」と悩み続けました。また、寺院に集まる民衆を見て、「自分だけでなく、誰にでも救いをもたらしたい」と志します。答えの見つからない中、法然上人は多くの寺院を訪ね歩き、他宗の僧侶と談義を交わしました。

<善導大師「観経疏」との出会い>

1175年、43歳にして、ついに法然上人は「阿弥陀様の教え」に出遭います。

善導大師(ぜんどうだいし)の「観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうのしょ)」に「南無阿弥陀仏と心から唱えることが、最も阿弥陀様の願いに叶う修行である」という一文(※1)があったのです。

善導大師は7世紀に活躍した中国の僧侶ですので、時や国を超えた出会いとも言えましょう。

<43歳、立教改宗>

こうして、法然上人は新たな宗派「浄土宗」を開かれます。それまでの日本仏教は、「超先進国・中国の皇帝すらも信じている仏教には大きな法力(魔法の力)がある。その力で国を護り、病気平癒などの祈願をしよう」というもので、信者は朝廷や貴族が中心でした。一方、「南無阿弥陀仏を唱えればどんな人でも救われる」という教えは、民衆を中心に広まりました。天台宗からも、親鸞(しんらん)上人をはじめ続々と弟子が加わり、宗派の勢いが強まっていきます。

<友人・信者>

貴族の中にも、法然上人の支援者が現れます。九条兼実(くじょうかねざね)公は、院政時代、名門貴族として若いころから権力闘争を生き延びてきた方でした。

また、武家では「平家物語」の「敦盛」に登場する熊谷直実(くまがいなおざね)がおられます。彼は、源平合戦において、たとえ敵方とはいえ息子ほどに若い「平敦盛」の首を取らねばなりませんでした。10年後に法然上人と面談した際、号泣されたと言われています。10年間、どれほど苦しまれたかが偲ばれます。

争いごとの中では、たとえ罪だと分かっていても、自分や一族郎党を護るために辛い決断をせねばならない時があります。後世における檀信徒に徳川家康公があげられますが、公の人生も苦渋の決断の連続でした。(※2)

また、それまで差別されてきた女性層や、蔑まれてきた職業の人達も、信者に加わりました。

<流罪>

法然上人自身が他宗を否定することはありませんでしたが(※3)、他宗では急激に広まる浄土宗への反発が高まっていました。法然上人が育った比叡山も、念仏停止を迫って蜂起したほどです。

また、法然上人の弟子の中には「念仏さえ唱えれば何をしてもよい」という誤った考え方を持つ人もおり、風紀の乱れを批判されていました。

そんな中、1207年に「後鳥羽上皇に仕える女官が、美僧に憧れて出家してしまう」という事件が発生します。怒った後鳥羽上皇は念仏停止を命じ、法然上人に流罪を言い渡します。

時に法然上人75歳。命が危ぶまれる処罰でしたが、九条兼実公の力添えにより、10か月の後に赦免となります。

<念仏で人生を終える>

法然上人は、京に戻ってから1212年に80歳で亡くなられるまで、生涯にわたり念仏を続けられました。その数一日に八万遍と言われています。「どんな方でも救われる」という教えのとおり、法然上人の庵には老若男女、身分を問わず多くの方が訪れました。

【法然上人絵伝より】

相談のお手紙にも親身に答えられたそうで、返信の書簡が現代にも残されています。

 

(※1)正確には、「一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥に、時節の久近を問はず、念々に捨てざる者は、是を正定の業と名づく、彼の仏願に順ずるが故に」という文です。

(※2)家康公は立場の弱い国に生まれ、今川家の人質として育ちました。情勢の変化で妻子に死を命じたこともあります。また、「負け戦の際、死ぬと分かっていても味方に命令を下さねばならなかった」という言葉を残されています。

(※3)法然上人は「選択本願念仏集」という本を著され、「何故念仏を選ぶのか」をつぶさに説明されましたが、他宗の修行を軽んじることはありませんでした。

 

「法然上人ものがたり」いかがでしたでしょうか。

「いくら誉めそやされても驕ることなく、常に相手の心に寄り添い、言葉に耳を傾け続けた方」として、私は法然上人を尊敬しております。まだまだ至らぬ凡夫の身ではございますが、今後とも精進してまいります。

本日も皆様方の暖かいお志を、極楽浄土のご先祖様をはじめ大切な方々に振り向けていただき、ともにお念仏をお唱えいただければと存じます。合掌

如来大慈大悲 哀愍護念 同唱十念  南無阿弥陀仏

皆様方のお心が少しでも安んじられますよう、ご健勝を祈念いたしております。