聖号十念(ブログの遅刻をお詫びいたします、そして今回は大変長いです)

おかげさまで本年も春彼岸法要を無事修することができました。この度の法話として、お釈迦様の生涯について改めて取り組んでみたところ、2500年分の仏道の重みにたじろぐ羽目になりました。2500年以上の間、様々な修行者が誇りと魂をかけて取り組んできたのが仏の道であり、時代の流れに洗われながら、固く踏み固められてきた道でもあります。言葉の定義一つとっても難しい昨今ですが、仏の道のよいところを一つでも多くお伝えし、どなたさまにも納得して手を合わせていただけるよう志を新たにした次第です。

さて、今回のタイトル「何故2文字で片付けちゃうの」とは、昨年大ヒットした「Habit」、「SEKAI NO OWARI」の楽曲の一節です。歌詞を拝見したところ、お釈迦様が考え抜かれたテーマについて実に鋭い切り口で描かれていることに驚きましたので、一部を引用しつつ、仏道なりの解説をさせていただきます。

「君たちったら何でもかんでも分類 区別 ジャンル分けしたがるヒトはなぜか分類したがる習性があるとかないとかこの世の中2種類の人間がいるとか言う君たちが標的」

お釈迦様は「人間にはどうしても考え方のクセや習慣(=Habit)というものがある。自分にとって都合のいいものはいつまでも続いて欲しいと思いたがる一方で、自分にとって都合の悪いものは見たくないからできれば消滅して欲しいと願ってしまう。それが全ての苦しみのもと(=無明)である」と仰っています。

勝敗、優劣、美醜、貧富、有名無名、敵味方などで世の中を分類し、自分に都合のいいものばかり永続するよう願い思いこむ。都合の悪いものは差別し排除する。若者は勝ち組になりたいと願い、富や美や味方仲間を高く買う。学のあるものはインテリ優遇を願い、金持ちは資本の保守を図り、力の強いものは自助を重んじ、持たざる者は世の中は運だと云い、反社は自分の行いを正当化し、政治家は支援者のいいように動く。負け組を自認したらしたで、成功者を「運がよかっただけ」とねたみ、全ての人が平等に扱われる「結果の平等」を夢見てしまう。そうして迷い苦しむ人をターゲットにするヤカラは世の中にあふれかえっているという歌詞ですね。正論過ぎて心が痛みます。

なぜなら、上記のような習慣は人生を勝ち残り生き延びる上でどうしても仕方がない部分があるからです。生きていくこととは無数の判断の連続です。分類したほうが効率が良く勝率が上がるから分類するのです。さっさと区別を済ませてレッテルを貼り、自分にとって都合の悪い敵は排除したほうが自分の心や縄張りはより安全になります。ただ勝ち残り生き延びていくことだけが目的ならば、この習慣を徹底するのも手ですが…本当にそれだけで良いのでしょうか?

「気付かない本能の外側を覗いていかない?気分が乗らない?」

Habitは『気づかない本能』と言い換えることもできるでしょう。この「分類のもたらす苦」を何とかしたいと修行の旅に出たのが若き日のお釈迦様です。仏教では「三」という数字を尊ぶしきたりがあります。お釈迦様は、勝敗、優劣、美醜、貧富、有名無名、敵味方など、「『2』という最も雑な分類」を越えた外側、プラス1の境地を目指しました。しかし、修行の道は楽なものではありません。お釈迦様は「仏の道は、流れる川の流れに逆らう歩みのようである」と仰っています。気分が乗らないのも当たり前なのです。

「夢を持てなんて言ってないそんな無責任になりはしないただその習性に喰われないでそんなhabit捨てる度 見えてくる君の価値」

仏教は「夢を持て」という言葉とは真逆の教えです。「現実をありのままに見ましょう」という非常にしんどいことを言って来ます。とはいえ、夢しか見ていないといざ現実が襲い掛かってきたとき、もっと痛い思いをすることになります。「確かに人間には困った本能があるというのも現実だが、良くないhabitは自覚すれば一つずつ変えていくことができる」のが仏の道です。無数の「良くないhabit」を修正する行いが文字通り「修行」なのです。

その後しばらく「元々負け組だった中年が悩めるアラサーをホンネで煽り倒す歌詞」が続きます。男子しかいないのは平成の就職事情でしょうか。奮起を期待する気持ちからの言葉のようですが、仏道では「あまりひどい言葉を相手に投げつけないように」という決まりがあるので中略しつつ本題に参ります。

「すぐ世の中 金だとか 愛だとか 運だとか 縁だとかなぜ2文字で片付けちゃうの」

どの言語においても「よく使う身近な言葉」はどんどん短くなる法則があります。その方が省エネだからです。金と愛は「生活や老後の安定に必要な、人間にとって都合のいいもの」です。運と縁は「成功したいと願う人間にとって都合のいいもの」です。仏教用語に「因縁(いんねん)」という言葉がありますが、「因」とは因果関係のうち、人間の目にも原因として明らかなもの、「縁」は人間には因果関係が証明できないけれど原因になっていそうなものを指します。「因縁をつける」とは「因果関係がないにも関わらずあるように見せかける」という意味です。「2文字で片付ける」というより「ずっと昔から人生に必要なものだからこそ2文字にまで縮んだ」というのが正確なところではないでしょうか。処世術としても運や縁は使われやすい単語です。処世術は便利で効率がいいからこそ処世術になったのですが、そんな方法ばかり選んでいると見えない範囲がどんどん増えるんじゃないのという歌詞のように思えます。

「悟ったふりして驕るなよ君に君を分類する能力なんてない」

「悟ったふりして驕る」とても強い言葉ですね。一行目だけ読むと、自分たちは物欲がないと悟ったような顔をして、家財道具の多い上の世代をバカにするのは思い上がりである、とも読めます。どの世代もそれぞれ与えられた環境と条件の中、自分なりに精一杯歩んでこられた方々です。上の世代をバカにしっぱなしで生きてきてしまうと、いざ自分が老いた時に自分が自分に牙を剥くのでおすすめはいたしません。

しかし、二行目とセットとして考えると、「自分で自分を雑に分類している若手への応援」とも読み取れます。ミュージックビデオの舞台は全て学校の施設内、キャストも学生と先生であり、とても狭い世界です。若いうちはつい、自分なんてどうせこんなもんなんだ、と様々な分類で自分を判断し、自分で作った虚像(仏教ではサンスカーラといいます)に自分を閉じ込めてしまいがちです。しかし、もし自分が無能であれば、「『自分は無能だ』と判断している自分」も無能であるはずです。

どうせ無能なら自分を自分で閉じ込めるのはやめて、他の道を探してみたらいいんじゃない、俺も割とそうだったよ。あ、また説教しちゃった。と舌を出す先輩の顔がなんとなく浮かびませんか。

私はこのバンドを良く知らないのですが、色々あってここまで凄みのある作品を創られたのだなあと頭が下がる気持ちになりました。頭が下がる相手がいる世の中は捨てたものではないと思います。

そしてまた、ここまで達観なんかできずに、日々の生活の中でしんどさに倒されそうになる私たちを支えようとしてくださるのが阿弥陀様という仏様、そして極楽浄土の亡き方々です。「ダメなときはしょうがないよね」で済まないご職業の方も多々おられますが、そうした方々の緊張をオフ時に緩めてあげるのも、周りの方々の力です。

皆様方が少しでも良い運とご縁に恵まれますよう、仏様ご先祖様方とともに日々お祈りしております。合掌

天災地変 殉難横死 三界萬霊 有縁無縁 乃至法界 平等利益 南無阿弥陀仏