聖号十念

新年あけまして早くも中旬が過ぎ去り、大寒波の予報に皆様備えておられることと拝察いたします。近隣の商業施設ではすでにバレンタインデー商戦が始まっていました。1月中旬にチョコを贈るためというより、フライングで自分へのご褒美消費を狙った取り組みなのでしょうか。

昨年までと違い、今年はオブジェにも気合が入っており、見ているだけで気持ちがときめきます。

しかしながら、ただ楽しいばかりでないのが恋や愛のやっかいなところです。古今東西、恋愛をテーマにした作品は数えきれない程ありますが、「愛とはこれだ」と必要十分に表現しきったとされる作品はありません。一言に「愛」と言っても、個々人が思い浮かべる姿は様々です。急に訪れたり、知らぬ間に消えてしまったりする。全く公平でも平等でもないヤクザな代物にも関わらず、人の人生を変える力すら持っている。だからこそ、あらゆる芸術におけるテーマとなりうるのでしょう。

仏教では「愛」という概念を、「人の悩みや苦しみの原因の一つ」として数えています。特定の誰かを大切にしようとすると、どうしても他の人よりヒイキすることに繋がりますので、仏様のような悟りの境地に至る最短距離には妨げとなります。しかし一方で「人間やってみなければ分からないことがある」のも仏の教えの一つです。

釈尊の言葉「スッパニータ」の一節にこのような文言があります。

「ためになることをいくら沢山語っても、それを実践しなければ怠け者です。それは他人の牛の数ばかり数えている牛飼いのようなものです。」

誰かを好きだと思い始めた時に自分の中に起こる反応は、実際体験してみないと分からない部分があります。友達と恋愛話をするばかりのほうが、実際に行動するより楽で楽しい。相手に釣り合うよう努力するのは時にしんどく、勇気を出して告白しても大恥をかく結末が待っているかもしれません。それでも、努力の跡は消えませんし、自分が悲しい思いをした分だけ、他の人に同じ思いはさせまいと決意することもできます。その一方、順調に家庭を持つまでに至っても、他の人に心が揺れ動いてしまい、かつての誓いを破ることになったり、自分の感情すらアテにならない恐ろしさに直面することもありえます。そうした誘惑に遭うこともなく、自分より大切だと言える存在に恵まれたとしても、「命の終わり」という避けえない別れがいつかは訪れます。思い出が多ければ多いほど、かけがえのない人であればこそ、お別れがその分辛いものになる、というのが私たちの生きる俗世のままならないところです。

そうした人々の苦しみや嘆きを古来より目の当たりにし、心の動きの一つ一つを換えの利かないものとして尊ばれてきたのが阿弥陀様という仏様です。別離の苦しみを少しでも緩めるために造られた阿弥陀様の国が極楽浄土と言う場所であり、亡き方々は何の心配もなくずっと護られて過ごすことができます。まれに「別れが余りにも辛いので、追いかけて自分も極楽浄土に向かいたい」とおっしゃる方もおられます。亡き方はそれほどまでに大きな存在でいらしたのでしょう。しかし、仏教ではみだりに命を断つことは、様々な理由からお引き留めしております。人一人が亡くなることの影響はご本人が思うよりも大きいというのも理由の一つです。「自分などいなくなっても誰も何も思わない」という方もおられますが、そのお言葉を聞いた私の胸が痛んでおります。全てを見通す仏様の目には「その方の助けを必要とする人が明日、一週間後、一年後に現れる」ことが見えているかもしれません。亡き方への想いは「南無阿弥陀仏」のお念仏を通じて極楽浄土へお手向けし、どうかこちらの世でもう少し、もうひと頑張りを共に過ごして欲しい、と阿弥陀様は願っておられます。

他者を慈しむ最初の一歩として、まずは一人でも多くの方の想いが伝わりますよう、山門の影から密かに応援しております。合掌